五摂家・公家の家系図|近衛・九条など摂家の分かれ方を図解

近衛・鷹司・九条・二条・一条。この五つの家の名前を並べただけで、「摂政・関白を出す家」「藤原氏の本流」という説明はできても、誰から誰が分かれて五つになったのかまではすぐには出てきません。五摂家の家系図で押さえるべき数字は3つです。起点は1人(藤原忠通)、直接そこから分かれる家は2つ(近衛・九条)、そこからさらに枝分かれして最終的に5家になる——この分岐の順番さえ押さえれば、五摂家の全体像は一枚の図で頭に入ります。
| 段階 | 分かれ方 |
|---|---|
| 1段目 | 藤原忠通の子の代で、近衛家・九条家の2家に分かれる |
| 2段目 | 近衛家から鷹司家が、九条家から二条家・一条家が分かれる |
| 結果 | 近衛・鷹司・九条・二条・一条の5家(五摂家)が成立 |
この分岐の順番を軸に、五摂家がどう分かれたのかを家系図のかたちで整理していきます。公家の家格の仕組みや、家を絶やさないための養子の使われ方もあわせて見ていきます。家系図づくりの基礎は家系図の書き方完全ガイドが参考になります。
目次
五摂家とは|摂政・関白を出す公家の名門
五摂家とは、摂政・関白に就くことができた五つの公家、すなわち近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家を指します。いずれも藤原氏の本流(摂関家)から分かれた家です。
摂政・関白は、天皇に代わって、または天皇を補佐して政務を行う朝廷の最高位です。平安時代に藤原道長らが独占した役職が、やがてこの五つの家から交代で選ばれるようになりました。藤原氏全体の流れは藤原氏・五摂家の家系図で整理しています。
五摂家の家系図|藤原忠通から分かれた五つの家

五つの家が、どのように分かれていったのかを一枚の家系図で見てみましょう。起点となるのは、平安後期の関白・藤原忠通です。
図の通り、五摂家は次のように分かれていきました。
- 近衛家 — 忠通の子・基実が祖。五摂家の筆頭とされます。
- 鷹司家 — 近衛家実の子・兼平が祖。近衛家から分かれました。
- 九条家 — 忠通の子・兼実が祖。近衛家とともに早くに分かれた本流です。
- 二条家 — 九条道家の子・良実が祖。九条家から分かれました。
- 一条家 — 九条道家の子・実経が祖。こちらも九条家から分かれました。
つまり、忠通の代でまず近衛・九条に分かれ、近衛から鷹司、九条から二条・一条が枝分かれしたのが五摂家の成り立ちです。親子(実線)の線をたどれば、五つの家のつながりがひと目で分かります。線の意味は家系図の記号・線の意味でも図解しています。
摂家から見る公家の家格|清華家・大臣家との違い
公家の世界には、就ける官職の上限で決まる家格(かかく)という序列がありました。五摂家はその頂点に立つ家格です。
家格は、おおむね次のように分かれていました。上から順に、摂政・関白を出せる摂家、太政大臣まで進める清華家(せいがけ)、大臣に至れる大臣家、と続きます。同じ公家でも、生まれた家の家格によって昇進の上限が決まっていたのです。
| 家格 | 就ける最高位 | 代表的な家 |
|---|---|---|
| 摂家(五摂家) | 摂政・関白 | 近衛・鷹司・九条・二条・一条 |
| 清華家 | 太政大臣 | 三条・西園寺・徳大寺 ほか |
| 大臣家 | 内大臣・大臣 | 中院・正親町三条 ほか |
このように、五摂家は公家のなかでも別格の家格でした。家格は家ごとに世襲されたため、どの家に生まれたかが一生の地位を大きく左右したのです。
なぜこの5家だけが摂家になったのか|藤原氏本流との分かれ方
藤原氏は平安時代を通じて多くの分家を生みましたが、摂政・関白を出せる摂家となったのは、忠通の子孫にあたるこの5家だけです。藤原氏には北家・南家・式家・京家という大きな分かれ方があり、五摂家はそのうち勢力を保った北家の、さらに摂関の地位を代々受け継いだ嫡流にあたります。同じ藤原氏でも、庶流にあたる家は清華家や大臣家、あるいはそれ以下の家格にとどまり、摂家にはなれませんでした。家系図でこの位置づけを確認するときは、「藤原氏のどの分かれ(北家か、そのなかの摂関の嫡流か)にあたるか」を起点にたどると、五摂家だけが別格である理由が見えてきます。藤原氏全体の広がりは藤原氏・五摂家の家系図で図解しています。
また、五摂家は特定の一家が摂政・関白を独占したわけではなく、時代によってどの家から関白が選ばれるかが入れ替わる慣行が続いたことでも知られています。家系図の上では5つの家が並列に描かれますが、実際の朝廷ではこの5家のあいだで摂関の地位が行き来していた、という点も押さえておくと、単なる家系の分岐図以上の意味が見えてきます。
五摂家の家系図で読み解く養子|家を絶やさないための仕組み
五摂家の家系図を読むうえでもう一つ欠かせないのが、養子で家をつないだ跡継ぎの存在です。公家の家は、当主に実子(とくに男子)がいない、あるいは早くに世を去るといった事情で跡継ぎが途切れる危険と常に隣り合わせでした。
そこで用いられたのが、一族や他家から跡継ぎを迎える養子縁組です。五摂家では、次のような形で家をつなぐ工夫が重ねられてきたと伝えられています。
- 同じ摂家どうしで養子を迎える — 近衛・九条など同格の家のあいだで、跡継ぎに困った家が別の摂家から子を迎える例があります。家格が対等な家どうしのやり取りだからこそ、家系図の破線一本で、格の異なる家からの養子とは違う意味合いを示せます。
- 天皇家・宮家から養子を迎える — 摂家は天皇家と縁が深いため、皇族から養子を迎えて家を継がせた例も伝えられています。
- 実子がいても庶子を跡継ぎに立てない — 正妻の子(嫡子)を優先する原則があり、側室の子(庶子)がいても、家督は嫡子が継ぐのが基本でした。
九条家から二条家・一条家が分かれた理由|同じ親から複数の家が立つ形
家系図でとくに読み解きにくいのが、九条道家という一人の人物から、二条家・一条家という2つの家が同時に立ち上がっている点です。きょうだいがそれぞれ別の家を興すこと自体は珍しくありませんが、五摂家のように家格の高い家では、次男・三男が新しい家を立てても、本家(この場合は九条家)と同格の摂家として朝廷に認められた点が特徴です。
系図をたどるときは、次の2点を確認すると整理しやすくなります。
- 九条家の家督を継いだのは誰か — 道家の子のうち、九条家そのものを継いだ人物と、新しく二条家・一条家を興した人物を分けて考えます。
- 新しく立てた家も摂家として並立したこと — 二条家・一条家は九条家の分家でありながら、格下の家ではなく、近衛・鷹司・九条と並ぶ摂家として扱われました。分家がそのまま本家と同格の家格を得る、という点は一般の武家の分家・庶流の扱いとは異なる、公家ならではの特徴です。
家系図の線だけを見ると九条家の下に二条家・一条家がぶら下がっているように見えますが、朝廷での扱いのうえでは5家が横並びの対等な摂家だった、という点を本文で補っておくと、図と実際の位置づけのずれを防げます。
実際に五摂家のような系図を描いてみるなら、作成ツールが便利です。本サイトの家系図エディタは、親子を実線、養子を破線で描き分けられ、人物を足すと線が自動でつながります。一つの家が複数に枝分かれする様子も、一枚の図にまとめられます。登録は不要で、ブラウザですぐに始められます。
忠通から近衛・九条へ、そこからさらに鷹司・二条・一条へ——分岐は2段しかありませんが、家格の頂点を五つの家で分け合う体制は江戸時代まで長く続きました。血のつながりだけでなく、誰が本家を継ぎ誰が新しい家を立てたか、跡継ぎが絶えかけた家をどう養子でつないだかまで含めて見ると、一枚の家系図から読み取れる情報の量がぐっと増します。
よくある質問
五摂家とは何ですか?
五摂家はどのように分かれたのですか?
公家の家格とは何ですか?
公家の家系図はどうやって作れますか?
AUTHOR
家系図マニア
祖父の連絡先を探して戸籍をたどった経験から、家系図を作りはじめました。家族のつながりも、歴史上の一族や物語の関係図も、自分の手でたどれる入口にしたいと考えて個人で運営しています。行政書士・司法書士などの資格は持たないため、法的な判断が必要な場合は専門家への相談をおすすめしています。