徳川御三家の家系図|尾張・紀州・水戸と御三卿、将軍を出した家を図解

当サイトのリンクには広告がふくまれています。

公開日: 家系図マニア
家系図続柄
徳川御三家の家系図|尾張・紀州・水戸と御三卿、将軍を出した家を図解

徳川御三家と御三卿を、将軍家とのつながりで並べると次のようになります。

区分 家 祖(初代) 将軍家とのつながり
御三家 尾張徳川家 徳川義直(家康の九男) 将軍は出していない
御三家 紀州徳川家 徳川頼宣(家康の十男) 8代吉宗・14代家茂を出す
御三家 水戸徳川家 徳川頼房(家康の十一男) 15代慶喜の生家
御三卿 田安徳川家 田安宗武(吉宗の次男) 将軍は出していない。1868年に宗家16代・家達を出す
御三卿 一橋徳川家 一橋宗尹(吉宗の四男) 11代家斉を出し、15代慶喜も一橋家から将軍に
御三卿 清水徳川家 清水重好(9代家重の次男) 将軍は出していない

御三家はいずれも家康の子から始まる家で、御三卿は8代吉宗・9代家重の子から始まる家です。将軍家(宗家)に跡継ぎがいないとき、まず御三家から、吉宗の時代以降は御三卿からも人が入って将軍位をつなぎました。ただ、表のとおり、実際に将軍を出した家は紀州・一橋の2家に偏っています。水戸は慶喜の生家ですが、慶喜は一橋家を継いでから将軍になりました。

スポンサーリンク

徳川御三家の家系図|尾張・紀州・水戸と御三卿を一枚で見る

家康の子から三家が分かれ、紀州家の吉宗が将軍になったあと、その子と孫から御三卿が生まれます。この流れを、将軍家への継承が読み取れる人物に絞って一枚にまとめました。

徳川御三家・御三卿と将軍家の家系図
この家系図を編集
家康の子から尾張・紀州・水戸の御三家が分かれ、紀州出身の吉宗の子・孫から田安・一橋・清水の御三卿が生まれた流れを示した簡易家系図です。実線は実の親子、破線は養子を表します。3代家光から7代家継までの将軍と、水戸家の4代から8代は省略しています。生没年は西暦(新暦)に換算した年です。

図は3本の柱で読むと整理しやすくなります。

  • 尾張の柱(左) — 義直から光友、綱誠を経て7代宗春へ。将軍家へ向かう線は出ていません。
  • 紀州の柱(中央) — 頼宣から光貞、吉宗へ。吉宗が将軍となり、その下で将軍家と御三卿が枝分かれします。図の中央から下は、ほぼ紀州の血筋です。
  • 水戸の柱(右) — 頼房から光圀・綱條へ。途中の代を省いて9代斉昭を置き、その子の慶喜までを示しました。省いた代の分だけ、斉昭は上の人物と線でつながっていません。

この図の破線は3か所です。光圀から綱條、10代家治から11代家斉、13代家定から14代家茂で、いずれも「実の親とは別に、家を継ぐための親がいる」ことを示す線です。図に載せていない人物どうしの養子関係もあるため、各家の歴代をくわしく描くと破線はさらに増えます。

尾張徳川家の家系図|義直から宗春へ、将軍を出さなかった筆頭

尾張徳川家は、家康の九男・義直を祖とする家です。名古屋城を居城とし、石高は約62万石で、御三家のなかでもっとも大きな家でした。

代 人物 家系図での位置
初代 徳川義直 家康の九男
2代 徳川光友 義直の子
3代 徳川綱誠 光友の子
7代 徳川宗春 綱誠の子。4代吉通・6代継友の弟

4代吉通のあと、その子の5代五郎太が幼くして亡くなり、吉通の弟の継友が6代、さらにその弟の宗春が7代を継ぎました。8代将軍吉宗の倹約政策に対して、名古屋で祭りや芸能を盛んにする政策をとり、のちに隠居を命じられたことで知られます。

尾張家は御三家の筆頭とされながら、将軍を一人も出していません。7代家継が幼くして亡くなったときも、宗家を継いだのは紀州の吉宗でした。家系図では、尾張の柱から将軍家へ向かう線が一本もないことが、この事実をそのまま表しています。

このとき尾張家の当主だったのは6代継友です。家系図で家康からの世代を数えると、継友は家康→義直→光友→綱誠→継友で家康の玄孫(4世代下)、吉宗は家康→頼宣→光貞→吉宗で曾孫(3世代下)にあたります。吉宗が選ばれた理由はほかにもあげられますが、家康に一世代近いことは、図の段の違いとしても読み取れます。

幕末には、14代慶勝が分家の美濃高須藩から入って尾張家を継いでいます。尾張家も、跡継ぎが絶えると分家や他家から人を迎えてつないだ家でした。

スポンサーリンク

紀州徳川家の家系図|頼宣から吉宗・家茂へ、二人の将軍

紀州徳川家は、家康の十男・頼宣を祖とし、和歌山城を居城とした家です。石高は約55万石。御三家で唯一、二人の将軍を出しました。

ひとり目は8代吉宗です。2代光貞の子で、兄たちが相次いで亡くなったため紀州家5代を継ぎ、7代家継の死後に宗家を相続して将軍となりました。吉宗が紀州から入ったことで、9代家重以降の将軍は、14代家茂まで吉宗の血を引く人物が続きます。

ふたり目は14代家茂です。家系図をたどると、家茂の父・斉順は11代将軍家斉の子で、紀州家に入って藩主となった人物でした。家茂は紀州家の当主(慶福)から13代家定の養子となり、将軍を継ぎます。

家茂の家系図には、次の2本の線が同時に入ります。

  1. 実父・斉順から家茂への実線(実の親子)
  2. 養父・家定から家茂への破線(将軍家を継ぐための養子)

「紀州徳川家の出身で、立場は将軍家の跡継ぎ」という二重の関係は、線を分けて描くと一目で読めます。家茂の祖父は家斉なので、血筋を上にたどると一橋家にもつながります。

水戸徳川家の家系図|頼房・光圀から斉昭・慶喜へ

水戸徳川家は、家康の十一男・頼房を祖とする家です。石高は最終的に約35万石で、尾張・紀州より小さく、官位も一段低い扱いでした。また、藩主が江戸に常駐する定府の家だった点も、ほかの二家と違います。

水戸家の家系図で目を引くのは、2代光圀の跡継ぎです。

  • 光圀は頼房の三男で、兄の松平頼重(讃岐高松藩主)をこえて水戸家を継ぎました
  • 光圀は、自分の跡継ぎに兄・頼重の子である綱條を養子として迎えます
  • 反対に、光圀の子・頼常は頼重の養子となり、高松藩を継ぎました

兄弟の子を入れ替えるかたちで、家督を兄の系統へ戻したわけです。家系図では、綱條に実父・頼重からの実線と、養父・光圀からの破線の2本が入ります。上の図では水戸家に入った綱條の側だけを示し、高松藩に入った頼常は省いています。

幕末の9代斉昭の七男が、のちの15代慶喜です。慶喜は御三卿の一橋家を継いだのち、14代家茂の死後に徳川宗家を相続して将軍となりました。水戸家から直接将軍家へ入ったのではなく、一橋家を経由しています。

スポンサーリンク

徳川御三卿の家系図|田安・一橋・清水の成り立ちと家斉・慶喜

御三卿は、田安・一橋・清水の3家です。田安家は吉宗の次男・宗武、一橋家は吉宗の四男・宗尹、清水家は9代家重の次男・重好を祖とします。家の名は、江戸城の田安門・一橋門・清水門の内側に屋敷があったことに由来します。

御三家との違いは、成り立ちの時期と性格にあります。御三家が家康の子を祖とし、それぞれ城を構える藩の大名家だったのに対し、御三卿は吉宗以降の将軍の子を祖とし、江戸時代には独立した藩を持たず、江戸城内に屋敷を構えた将軍家の家族に近い家でした。

3家のうち、将軍を出したのは一橋家です。

  • 一橋家 — 2代治済の長男・家斉が10代家治の養子となり、11代将軍に。15代慶喜も一橋家当主から将軍家に入りました
  • 田安家 — 将軍は出していません。宗武の子・松平定信は白河藩へ養子に出て、のちに老中として寛政の改革を進めました。1868年(慶応4年)には、田安家の家達が徳川宗家16代を継いでいます
  • 清水家 — 当主が空席になる時期もあり、将軍は出していません

家斉の家系図では、実父・治済への実線と、養父・家治への破線が並びます。そして家斉の子の世代から、12代家慶(将軍家)と斉順(紀州家)の二つの線が出ていきます。

徳川御三家・御三卿と将軍家の家系図|養父の線と宗家相続を比べる

将軍家を継いだ人物のうち、御三家・御三卿の出身者を並べると次のとおりです。

代 将軍 出身 継いだ時期と家系図での線
8代 吉宗 紀州徳川家 7代家継の死後に宗家を相続。紀州の系統に置き、宗家相続を注記
11代 家斉 一橋徳川家 10代家治の養子。実父・治済へ実線、養父・家治へ破線
14代 家茂 紀州徳川家 13代家定の養子。実父・斉順へ実線、養父・家定へ破線
15代 慶喜 水戸徳川家→一橋家 14代家茂の死後に宗家を相続。水戸の系統に置き、一橋家・宗家相続を注記

4人とも最終的に徳川宗家を継いでいますが、継いだ時期に違いがあります。家斉と家茂は、前の将軍が存命のうちに養子として迎えられ、跡継ぎとして江戸城に入りました。家系図では、実父への実線に加えて養父への破線を引きます。一方、吉宗と慶喜は、前の将軍が亡くなったあとに分家から宗家の家督を継ぎました。この図では前将軍との間に線を引かず、実家の系統に置いたまま「宗家を相続」と注記しています。前将軍との縁組の扱いは資料によって説明が分かれるため、線を引くかどうかは、よりどころにする系譜資料に合わせて決めるのが確実です。

なお、6代家宣も前将軍・綱吉の養子ですが、家宣は家光の孫にあたる甲府徳川家の出身で、御三家・御三卿ではありません。15代将軍全員の続柄と在職期間は徳川15代将軍の一覧と家系図で整理しています。御三家を興した家康の子たちについては徳川家康の家系図で詳しくたどれます。

将軍継嗣問題|紀州の慶福と一橋の慶喜、家系図で見る二人の候補

御三家・御三卿の家系図がもっとも注目されたのは、幕末の13代家定の跡継ぎ選びです。家定には子がなく、候補に挙がったのが紀州家の当主・慶福(のちの家茂)と、一橋家の当主・慶喜でした。

比べる点 紀州の慶福(家茂) 一橋の慶喜
生まれた家 紀州徳川家 水戸徳川家(斉昭の七男)
当時の家 紀州徳川家の当主 御三卿・一橋家の当主
将軍家との血縁 家斉の孫で、家定とはいとこ 将軍家との近い血縁はない
推した人々 南紀派 一橋派

結果として、1858年に大老・井伊直弼のもとで慶福が家定の後継に決まり、14代家茂となりました。家系図で見ると、慶福の父・斉順と家定の父・家慶はどちらも家斉の子で、二人はいとこどうしです。一方の慶喜は、斉昭の線をたどっても将軍家との近い親子線が出てきません。血筋の近さを重んじる考え方では慶福が有利だったことが、線の位置からも分かります。慶喜が将軍となるのは、家茂が亡くなった1866年のことでした。

スポンサーリンク

徳川御三家の家系図を自分で描く方法|実線と破線の引き分け

御三家のように養子が多い家系を描くときは、次の順で進めると線が混ざりません。

  1. 最上段に家康を置き、その下に秀忠・義直・頼宣・頼房を横一列に並べる
  2. 各家の実の親子を実線で結び、藩主の代数は「尾張家7代」のように人物枠へ注記する
  3. 養子は、実父からの実線に加えて、養父からの破線を引く(綱條・家斉・家茂)
  4. 途中の代を省く場合は線を直結させず、「水戸家9代」のように人物枠へ注記する
  5. 前将軍の死後に宗家を継いだ人物(吉宗・慶喜)は、実家の系統に置いて「宗家を相続」と注記する

実の親子と養親子を同じ線で結ぶと、「血筋」と「家督」の区別が図から消えてしまいます。養子の線の基本は家系図での養子の書き方、関係線全体のルールは家系図の書き方完全ガイドで確認できます。

徳川御三家の家系図|三つに分かれる家系線と和紙の系図のイメージ

\登録不要・ブラウザですぐ作成/
家系図を無料で作ってみる
実子は実線・養子は破線で描き分け
省いた代は人物枠に注記

徳川御三家の家系図に関するよくある質問

Q徳川御三家とはどの家ですか?
尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の3家です。それぞれ家康の九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房を祖とします。
Q御三家と御三卿の違いは何ですか?
御三家は家康の子を祖とし、城を構える藩の大名家です。御三卿の田安・一橋・清水は、8代吉宗・9代家重の子を祖とし、江戸城のそばに屋敷を構えた家です。家系図では、御三卿は紀州出身の吉宗の下から分かれます。
Q御三家から将軍になったのは誰ですか?
紀州徳川家から8代吉宗と14代家茂が将軍になりました。15代慶喜は水戸徳川家の生まれですが、一橋家を継いでから将軍家に入っています。尾張徳川家からは将軍が出ていません。
Q水戸黄門で知られる徳川光圀は家系図のどこにいますか?
水戸徳川家の2代藩主で、初代頼房の三男です。兄・松平頼重の子である綱條を養子に迎えて3代とし、自分の子・頼常は頼重の養子として高松藩を継ぎました。
Q一橋家から将軍になったのは誰ですか?
11代家斉と15代慶喜です。家斉は一橋家2代治済の長男で、10代家治の養子となりました。慶喜は水戸家の斉昭の七男で、一橋家を継いだのち徳川宗家を相続しました。
スポンサーリンク

AUTHOR

家系図マニアのプロフィール画像

家系図マニア

祖父の連絡先を探して戸籍をたどった経験から、家系図を作りはじめました。家族のつながりも、歴史上の一族や物語の関係図も、自分の手でたどれる入口にしたいと考えて個人で運営しています。行政書士・司法書士などの資格は持たないため、法的な判断が必要な場合は専門家への相談をおすすめしています。