平清盛の家系図|娘・徳子と高倉天皇・安徳天皇のつながりを図解

平清盛の家系図は、たった三代で読み終わります。清盛から娘の徳子へ実線、徳子から孫の安徳天皇へ実線。この二本をたどるだけで、清盛が天皇の外祖父になったこと、つまり平氏が頂点に立った理屈が説明できてしまいます。
ところが、実際に平氏の系図を書き写そうとすると、そこかしこで手が止まります。嫡男・重盛の母を誰にするのか。三男と呼ばれる宗盛の上に、描くべき次男がいるのかどうか。名前に「盛」が付く人物が十数人並んで、どれが誰の子なのか分からなくなる。平氏の系図の難しさは、関係の複雑さよりも同じ字を使い回した名前と、母の記載が資料によってそろわないことにあります。家系図づくりの基礎は家系図の書き方完全ガイドもご覧ください。
目次
平清盛の家系図|忠盛・清盛と子どもたち
まずは、平氏の中心を家系図で見てみましょう。父・忠盛、清盛と妻・時子、そして嫡男・重盛、三男・宗盛、娘・徳子の関係です。
図の通り、平氏の中心は次のように整理できます。
- 忠盛と清盛 — 清盛は父・忠盛の子として実線で結ばれます。忠盛は院に仕えて平氏の地位を高め、清盛がその基盤を受け継ぎました。
- 清盛と妻・時子 — 二人は配偶者線(二重線)で結ばれます。時子は「二位尼」とも呼ばれます。
- 重盛・宗盛・徳子 — いずれも清盛の子です。嫡男・重盛は時子とは別の母の子、三男・宗盛と娘・徳子は時子の子です。
- 徳子と高倉天皇 — 娘・徳子は高倉天皇に嫁ぎ、配偶者線(二重線)で結ばれます。
このように、婚姻(二重線)と親子(実線)の線をたどれば、平氏が天皇家とどう結びついたのかが一枚の図で読み解けます。
図の読み方|線の本数が人物ごとに違う理由
上の図を注意して見ると、清盛の子の三人で、上から伸びてくる線の本数が違います。宗盛と徳子には清盛と時子の二人から線が来ていますが、重盛には清盛からの線しか来ていません。描き忘れではなく、重盛の母が時子ではないためです。
家系図では、片方の親だけが分かっている人物は分かっている親からのみ実線を引くのが原則です。実線を二本引いてしまうと「この夫婦の子」という意味になり、事実とずれた図になります。母が別人だと分かっているなら、線は一本にとどめておくほうが正確です。
もうひとつ、生没年の並びから読めることがあります。図の徳子は1155年生まれ、夫となる高倉天皇は1161年生まれと入れてあります。つまり妻のほうが年上の婚姻です。当時の入内では、幼い天皇に有力者の娘が年長で嫁ぐ形が珍しくありませんでした。家系図に生没年を入れておくと、こうした年齢の関係が図を見ただけで読めます。
孫の安徳天皇は1178年生まれで、1185年に世を去ったと入れてあります。在位は数え年で三歳のころに始まったと伝えられ、図の上では祖父・清盛が没した1181年より後まで在位が続くという並びになります。清盛は孫の即位という目的を果たしたあと、その天皇が退位も成人もしないうちに世を去ったことになります。
平清盛の家系図で迷う箇所|重盛の母と、描かれていない次男
図を自分の手で書き写すとき、実際につまずくのは次の二点です。
ひとつは、重盛の母を誰に置くかです。重盛は清盛の長男で嫡男として扱われますが、その母は時子ではなく、清盛の先の妻とされます。ここで系図の書き方は三つに分かれます。
- 母の人物枠を作らず、清盛からの実線だけを引く(この記事の図の方式)
- 「先妻」という名の枠を置き、清盛と二重線で結んで、そこから重盛へ実線を引く
- 母の名を注記として重盛の枠内に小さく添える
どれも間違いではありません。ただし同じ図の中で方式を混ぜないことが大事です。ある子だけ母を描き、別の子は描かないと、読み手は「母が不明なのか、同じ母なのか」を判断できなくなります。人数が多い一族では、母の枠を作らず注記に統一するほうが図が破綻しにくくなります。
もうひとつは、「三男」という呼び方です。 図には清盛の子が三人しか出てきませんが、宗盛は三男と呼ばれます。つまり長男の重盛と宗盛のあいだに、図に描いていない次男がいるということです。清盛の次男は基盛とされ、若くして世を去ったと伝えられます。宗盛の下にも知盛・重衡といった子がおり、清盛の子はこの図よりずっと多い人数になります。
ここから引き出せる作法はひとつです。「○男」「○女」という続柄を図に書き込むなら、その番号の根拠となる人物をすべて描くか、描いていないことを注記する。 三人しか描いていない図に「三男」と書くと、読み手は必ず「二男はどこか」で止まります。逆に、番号を書かず「子」として並べるなら、省略があっても図は成立します。ご自身の家の系図でも、戸籍から把握できた子だけを並べて「長男」「次男」と振ると、幼くして亡くなった子を飛ばした番号になってしまうことがあります。
平清盛の外戚政策|娘・徳子と安徳天皇

家系図を見ると、清盛が頂点に立った仕組みが見えてきます。それが外戚政策です。外戚とは、天皇の母方の親戚のこと。娘を天皇に嫁がせ、その子を次の天皇に立てれば、自分は天皇の祖父として強い力を持てます。
清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせました。そして二人の子である安徳天皇がわずか数えで即位します。これにより、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)として、平氏の権勢を頂点に押し上げました。
| 人物 | 立場 | ポイント |
|---|---|---|
| 平清盛 | 太政大臣 | 安徳天皇の外祖父 |
| 平徳子 | 高倉天皇の后 | 建礼門院。安徳天皇の母 |
| 安徳天皇 | 第81代天皇 | 清盛の孫。幼くして即位 |
家系図で見ると、清盛から徳子へ実線(親子)、徳子から安徳天皇へ実線(親子)とたどれ、清盛が天皇の祖父にあたることがひと目で分かります。線の意味は家系図の記号・線の意味でも図解しています。
なお、外戚として力を持つ仕組みは平氏の発明ではありません。娘を天皇家に入れて外祖父となる形は、それ以前に藤原氏が長く用いてきた手法です。清盛が武士でありながら同じ位置に立ったことが、当時としては異例でした。家系図の形だけを見れば、平氏の系図と摂関家の系図は「自家の娘から天皇へ下がる実線」という同じ図形を持っています。
平氏の家系図が読みにくい理由|通字「盛」と一門の広がり
平氏の系図をたどろうとすると、多くの人が名前で挫折します。理由は明確で、一門の男子の名にほとんど「盛」の字が入るためです。忠盛・清盛・重盛・宗盛・知盛・頼盛と並べても、この字だけでは世代も続柄も読み取れません。
こうした一族共通の字を通字といいます。通字がある家の系図では、次の三点を守らないと読めない図になります。
- 生没年を必ず添える — 名前が似ている以上、人物を確定できるのは年号です。片方だけでも入れておきます。
- 世代の段を厳密にそろえる — 名前で世代が判別できないので、図の縦位置だけが世代の手がかりになります。段が一段でもずれると、兄弟が親子に見えます。
- 官職や通称を併記する — 平氏でいえば「太政大臣」「小松殿」「池殿」のような呼び名が、名前よりも人物を特定してくれます。
この事情は、日本の旧家の系図に共通します。江戸期以前の家では代々同じ字を受け継ぐことが多く、戸籍以前の系譜資料をたどると同名・類似名がずらりと並びます。ご自身の家の系図を先祖までさかのぼる場合も、名前だけの箱を並べず、年号と続柄を必ずセットで記録することが後の自分を助けます。
平清盛の弟と継母|池禅尼から読む異母の兄弟
清盛の系図でもうひとつ押さえておきたいのが、父・忠盛の妻が一人ではないことです。清盛には母を異にする弟たちがおり、その一人が頼盛です。頼盛の母は、忠盛の妻で「池禅尼」と呼ばれた女性とされます。
清盛から見れば、池禅尼は父の妻ではあっても実母ではありません。この関係は続柄でいえば継母にあたります。家系図では、継母は実母と区別して描く必要があります。忠盛と池禅尼を二重線で結び、そこから頼盛へ実線を引き、清盛へは線を引かない——これで「同じ父を持つが母は別」という関係が図の上で正しく表せます。
この描き分けを省くと、系図は簡単に誤りになります。清盛と頼盛を同じ夫婦の下にまとめてしまえば、まったく別の家族関係を主張したことになるからです。
池禅尼は、後に源氏の頼朝の命を助けるよう清盛に勧めた人物としても知られます。平氏が滅亡したのちも頼盛の家系が残ったのは、この縁があったためと伝えられます。図の上では同じ父から出た二本の線のうち、一本だけが壇ノ浦の先へ延びるという形になります。家督や嫡流とは別に、異母の枝がどこまで続いたかを追うのは、系図をたどる面白さのひとつです。
平氏のその後|壇ノ浦と、天皇が二人になった系図
栄華を極めた平氏でしたが、清盛の死後、源氏との争い(源平の戦い)のなかで急速に追い詰められていきます。そして1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。幼い安徳天皇も、祖母の時子に抱かれて入水し、数え8歳で崩御したと伝えられます。
このとき、天皇家の系図に珍しい状態が生まれています。平氏が安徳天皇を連れて西国へ移ったあと、京では高倉天皇の別の子が新たに天皇として立てられたのです。それが後鳥羽天皇で、安徳天皇にとっては母を異にする弟にあたります。
家系図として見ると、次のようになります。
- 高倉天皇から下に実線が二本出る(安徳天皇と後鳥羽天皇)
- 安徳天皇の側には徳子=平氏からの線がつながる
- 後鳥羽天皇の側には別の母からの線がつながる
- 在位の期間が一時的に重なる
つまり、平氏が推す天皇と京の天皇が同時に存在した状態です。系図の図形そのものは「異母の兄弟」というありふれた形ですが、その一本の線の違いが平氏の運命を決めました。徳子から下がる線が絶たれた時点で、平氏は外戚という立場を失ったことになります。
実際に平氏のような系図を描いてみるなら、作成ツールが便利です。本サイトの家系図エディタは、夫婦を二重線、親子を実線で描き分けられ、人物を足すと線が自動でつながります。天皇家との婚姻でつながる関係も一枚の図に整理できます。登録は不要で、ブラウザですぐに始められます。
平清盛の家系図を描いたあとにやること
清盛・徳子・安徳天皇の三代を描き終えたら、そこから先の作業は「人物を増やす」より「線の根拠をそろえる」ほうに時間を使うと、図の精度が上がります。次の順で手を入れてみてください。
- 母が確定していない子の線を一本に直す — 夫婦の枠から二本引いている箇所を洗い出し、母が不明・別人の子は父からの一本に戻します。ここを直すだけで系図の誤りは大きく減ります。
- 続柄の番号を書くかどうかを決める — 「三男」と書くなら省略した兄弟を注記する。書かないなら全員を「子」として並べる。図の中で方針を統一します。
- 同じ字を持つ人物に年号か通称を足す — 「盛」のような通字がある一族では、名前だけの枠は必ず後で読めなくなります。
- 異母の枝を最後までたどる — 嫡流が絶えても、母の違う枝が続いていることがあります。系図の価値は、途切れた線より続いた線のほうにあります。
この四つは、ご自身の家の系図をさかのぼるときにも同じ順番で効いてきます。とくに「母の線を安易に二本引かない」という一点は、戸籍で母が確認できない世代に入った時点で必ず必要になります。
よくある質問
平清盛と安徳天皇はどういう関係ですか?
平徳子(建礼門院)とは誰ですか?
なぜ平清盛は外戚政策をとったのですか?
平重盛はなぜ家系図で母の線がないのですか?
平氏の家系図はどうやって作れますか?
AUTHOR
家系図マニア
祖父の連絡先を探して戸籍をたどった経験から、家系図を作りはじめました。家族のつながりも、歴史上の一族や物語の関係図も、自分の手でたどれる入口にしたいと考えて個人で運営しています。行政書士・司法書士などの資格は持たないため、法的な判断が必要な場合は専門家への相談をおすすめしています。