織田信長の家系図|父・信秀、子・信忠、孫・三法師など子孫まで図解で解説
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この記事で分かること
- 織田信長の家系図が、父・信秀から子・信忠、孫・三法師まで一目でわかる
- 正室・濃姫と側室の子(信忠ら)の違いと、家系図での描き分け方
- 妹・お市の方から浅井三姉妹を経て、徳川・豊臣へつながる血筋
- 三法師(秀信)から現代まで——織田家の子孫はどこまで残ったか
- 織田家の家系図を、標準的な関係線で自分で作る方法
織田家の系図を読んでいて引っかかりやすいのが、「正室に子がいない家系図」と「側室の子が家を継ぐ家系図」の見分け方です。信長の正室・濃姫との間には子がなく、家督を継いだ信忠ら主な子はすべて側室の子でした。また、父・信秀には信長より年上の庶長子・信広がいましたが、家督は正室の子である信長に渡っています。生まれた順番と、家を継ぐ立場(嫡男)は必ずしも一致しない——この点を押さえておかないと、系図の線をたどっても「なぜこの子が継いだのか」がわからないままになります。
清須会議をめぐる5人の続柄と、その後の動きを先に整理すると次のとおりです。三法師・信孝・お市の方は織田家の血縁者ですが、秀吉と勝家は信長の重臣であり、三法師との親子関係はありません。
| 人物 | 三法師との関係 | 清須会議後の動き |
|---|---|---|
| 三法師(織田秀信) | 父は信長の嫡男・信忠。信長の嫡孫 | 幼くして織田家の後継者となり、のちに岐阜城主となった |
| 織田信孝 | 信長の三男で、三法師の叔父 | 勝家と結び秀吉と対立。1583年に自害した |
| 羽柴秀吉 | 血縁はなく、信長の重臣 | 三法師を後継者として支持し、織田家中で主導権を強めた |
| 柴田勝家 | 血縁はなく、信長の重臣 | 信孝を支持し、お市の方と再婚。賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた |
| お市の方 | 信長の妹で、三法師の大叔母 | 会議後に勝家と再婚し、1583年に北ノ庄城で勝家とともに亡くなった |
目次
織田信長の家系図|父・信秀から子・信忠まで一目でわかる系図
織田信長を中心に、父母・兄弟・子・孫のつながりを簡易系図にまとめました。妻(濃姫・側室)は煩雑になるため省き、のちの「妻と子供」の章でくわしく扱います。縦の実線は実の親子・兄弟、横の二重線は婚姻(夫婦)を表します。
家系図のかたちで大きな流れを追うと、次のように整理できます。
- 父は「尾張の虎」織田信秀 — 信長は信秀の嫡男として家督を継ぎました。庶長子の信広(異母兄)もいましたが、正室・土田御前の子である信長が跡を継ぎます。同じ母から弟・信行(信勝)と、妹・お市の方が生まれています。
- 正室・濃姫に子はなく、後継は側室の子 — 信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)ですが、二人の間に子はいなかったとされます。嫡男・信忠をはじめ信雄・信孝・徳姫は、いずれも側室の子です。
- 孫・三法師へ — 嫡男・信忠の子が、清洲会議で有名な三法師(のちの織田秀信)です。信長の血筋は、この孫の代へと受け継がれていきました。
以下では、この系図を「父母・兄弟」「妻と子」「妹お市の方の血筋」「子孫」の順に、もう少しくわしく見ていきます。
織田信長の父・母・兄弟|織田一族の続柄をたどる
織田信長を理解するには、まず信長を生んだ織田一族の顔ぶれを押さえると分かりやすくなります。父・母・きょうだいの続柄と人物像を、表で整理しました。
| 続柄 | 人物(読み) | 関係・主な事績 |
|---|---|---|
| 父 | 織田信秀(のぶひで) | 尾張の実力者で「尾張の虎」と呼ばれた。信長に家督と勢力の基盤を残した |
| 母 | 土田御前(どたごぜん) | 信秀の正室。信長・信行・お市の方らの母 |
| 弟 | 織田信行(のぶゆき/信勝) | 同母の弟。家督をめぐって信長と対立し、最終的に信長に討たれた |
| 妹 | お市の方(おいちのかた) | 戦国一の美女と伝わる。浅井長政に嫁ぎ、のちに柴田勝家と再婚した |
織田信長の妻と子供|濃姫・信忠・信雄・信孝を家系図で整理
織田信長の家系図で、いちばん「あれ?」となりやすいのが妻と子の関係です。正室・濃姫には子がなく、家を継いだ信忠らは側室の子でした。主な妻子を一覧で見てみましょう。
| 続柄 | 名前(読み) | 母・主な事績 |
|---|---|---|
| 正室 | 濃姫(のうひめ/帰蝶) | 斎藤道三の娘。信長との間に子はなかったとされる |
| 嫡男 | 織田信忠(のぶただ) | 側室・生駒氏の子。家督を継ぐが、本能寺の変の際に二条御所で自害 |
| 次男 | 織田信雄(のぶかつ) | 側室・生駒氏の子。長く生き、子孫が大名家として明治まで続いた |
| 三男 | 織田信孝(のぶたか) | 神戸家を継ぐ。本能寺の変の後、秀吉と対立し自害 |
| 長女 | 徳姫(とくひめ/五徳) | 側室・生駒氏の子。徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いだ |
なお長女・徳姫は、徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いでいます。織田家と徳川家は、信長の代から婚姻で深く結ばれていました。そして後半で見るように、信長の妹・お市の方の血もまた、徳川・豊臣の両家へと流れていきます。
織田信忠の家系図|信長から三法師へ続く嫡流
織田信忠の家系図は、織田信長 → 織田信忠 → 三法師(織田秀信)という三代で捉えると分かりやすくなります。信忠は信長の嫡男で、母は側室の生駒氏です。1575年に信長から織田家の家督を譲られ、岐阜城主として美濃・尾張の一部を治めました。
| 信忠との続柄 | 人物 | 家系図での位置づけ |
|---|---|---|
| 父 | 織田信長 | 信忠へ織田家の家督を譲った |
| 本人 | 織田信忠 | 信長の嫡男。岐阜城主として織田家を継いだ |
| 子 | 三法師(織田秀信) | 信忠の子で、信長の嫡孫。のちに織田家の家督を継いだ |
1582年の本能寺の変では、信長が本能寺で襲われたのに対し、信忠は妙覚寺から二条新御所へ移り、明智軍と戦った末に自害しました。家督を継いでいた信忠も同日に亡くなったため、幼い三法師を軸に織田家の後継体制を組み直す必要が生じます。事件当日の父子の動きは、本能寺の変の人物関係図で時系列に沿って確認できます。
信忠の子・三法師は、清須会議後に織田家の当主となりました。信長の三男・信孝は三法師の叔父にあたり、羽柴秀吉や柴田勝家は血縁者ではありません。家督と後見をめぐる関係は、清須会議の人物関係図で血縁線と政治上の支持を分けて解説しています。
清須会議の人物関係図|三法師・信孝・秀吉・勝家・お市
本能寺の変で信長と嫡男・信忠が相次いで亡くなると、織田家では後継者と領地の再配分が問題になりました。通説では、清須会議(清洲会議)で羽柴秀吉が信忠の子・三法師を推し、柴田勝家が信長の三男・信孝を推したと整理されます。お市の方は信長の妹で三法師の大叔母にあたり、会議後に勝家と再婚しました。
事件当日の明智光秀・信長・信忠・秀吉・徳川家康の動きは、本能寺の変の人物関係図で主従・親子・同盟の線に分けて整理しています。
5人の関係は、血縁と政治的な支持を分けると読みやすくなります。三法師と信孝・お市の間にあるのは織田家の血縁ですが、秀吉と勝家がそれぞれ後継候補を支えた線は政治的な関係です。会議後、秀吉と勝家・信孝の対立は深まり、翌1583年の賤ヶ岳の戦いへつながりました。豊臣秀吉の家系図では、秀吉が三法師を支持した背景を、織田家の家督と血筋から解説しています。なお近年は、三法師の家督継承は会議前から既定路線だったとする研究もあります。図は人物の位置関係をつかむため、広く知られる通説に沿って整理しています。
お市の方の家系図|浅井三姉妹から徳川・豊臣へつながる血筋
織田信長の家系図を語るうえで欠かせないのが、妹・お市の方の血筋です。お市の方は浅井長政に嫁ぎ、三人の娘——いわゆる浅井三姉妹を産みました。この三姉妹を通じて、信長の血は天下人の家へと広がっていきます。
| 続柄 | 人物(読み) | その後・つながった家 |
|---|---|---|
| 長女 | 茶々(ちゃちゃ/淀殿) | 豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産んだ |
| 次女 | 初(はつ/常高院) | 京極高次に嫁いだ |
| 三女 | 江(ごう/崇源院) | 徳川秀忠の正室となり、3代将軍・徳川家光らを産んだ |
二人の夫と浅井三姉妹の実親子関係は、お市の方の家系図で一枚の系図と年表にまとめています。
織田信長の家系図は信長一人で完結するものではなく、妹・お市の方を起点に、天下人たちの家系へと枝を伸ばしています。続柄をていねいにたどると、教科書で別々に習った人物が、実は一本の血筋でつながっていたことが見えてきます。
織田信長の子孫は現在も続いている?|三法師から現代の織田家まで
では、織田信長の直系の子孫は、その後どこまで続いたのでしょうか。鍵を握るのは、嫡男・信忠の子三法師(織田秀信)と、次男・織田信雄の家系です。
- 三法師(織田秀信) — 本能寺の変で父・信忠を失ったあと、清洲会議でわずか3歳ながら織田家の家督を継ぎました。のちに岐阜城主となりますが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易され、高野山へ送られます。信長の嫡流(本家筋)は、この代で事実上途絶えました。
- 次男・信雄の系統 — いっぽう信雄は長生きし、その子孫は大名家として存続します。出羽の天童藩、丹波の柏原藩などを治め、織田家は明治維新まで家名を保ちました。柏原藩の最後の当主・織田信恒は、のちに漫画家「織田小星」として活躍したことでも知られます。
血筋をたどると、織田信長の家系は「嫡流は早くに途絶え、傍系(信雄ら)が家名を後世へ伝えた」という形をしています。これは、養子や分家が本家を支えた徳川将軍家の家系図とはまた違う、戦国大名らしい一族のたどり方といえます。
織田家の家系図を自分で作る方法|標準的な関係線で再現
ここまで見てきたように、織田信長の家系図には、婚姻・実子・側室の子・他家への嫁入りなど、さまざまな関係が登場します。こうしたつながりは、文字の一覧より、線で結んだ家系図にすると一気に分かりやすくなります。
家系図をきれいに描くコツは、関係ごとに線を引き分けることです。本サイトでは、系統図で広く使われる標準的な記法に沿って、次のように線を使い分けることをおすすめしています。
| 関係 | 線の種類 | 書き方のポイント |
|---|---|---|
| 親子(実子) | 実線 | 夫婦を結ぶ線の中点から、子へ下ろします |
| 配偶者(婚姻) | 二重線 | 夫婦を横に並べ、二重の横線で結びます |
| 離婚(元配偶者) | 二重斜線 | 配偶者の二重線に斜線を重ね、離婚を示します |
| 養子 | 破線 | 実の親子(実線)と区別するため、破線で結びます |
たとえばお市の方は、浅井長政との死別後に柴田勝家と再婚しています。こうした再婚も、配偶者ごとに二重線を引き分ければ、関係がひと目で分かります。関係線の詳しい引き方は、家系図の書き方完全ガイドでも図解しています。
手書きでも描けますが、人物が増えると線の引き直しが大変です。オンラインの家系図ツールやテンプレートを使えば、配置や線をあとから自由に直せて、印刷や共有もかんたんです。本サイトの家系図エディタは、ここで紹介した関係線(実線・二重線・二重斜線・破線)をそのまま選んで引けるように作られています。和紙・免許状風のテンプレートも用意していますので、歴史好きの自由研究から、ご自身の家系図づくりまで幅広く使えます。登録は不要です。
織田信長の家系図でつまずきやすい点
- 「濃姫に子がいた」と思い込む — 濃姫との間に子の記録はなく、信忠ら主な子はすべて側室の子です。正室と生母は必ず分けて確認します
- 「庶長子の信広が継いだはず」と誤解する — 家督は生まれた順ではなく、正室の子である信長に渡りました。続柄と嫡男の立場は別物です
- 「お市の方の血筋は織田家止まり」と見落とす — 浅井三姉妹を通じて豊臣・徳川の双方につながっており、他家へ嫁いだ先の婚姻線まで追わないと見えてきません
- 「信長の子孫」を称する系図をそのまま信じる — 信雄の系統以外は後世の調査によるものも多く、学術的な確証と家伝を分けて見る姿勢が大切です
以下のFAQは、史実上の続柄と婚姻関係を答えたものです。ドラマで加えられた台詞や場面上の演出とは分けて整理しています。
よくある質問
織田信長の父と母は誰ですか?
織田信長の正室・濃姫に子はいましたか?
お市の方は織田信長とどういう関係ですか?
三法師と織田信孝はどんな関係ですか?
三法師は誰の子ですか?
お市の方と柴田勝家はどんな関係ですか?
三法師(織田秀信)はどうなりましたか?
織田信長の子孫は現在もいますか?
AUTHOR
家系図マニア
祖父の連絡先を探して戸籍をたどった経験から、家系図を作りはじめました。家族のつながりも、歴史上の一族や物語の関係図も、自分の手でたどれる入口にしたいと考えて個人で運営しています。行政書士・司法書士などの資格は持たないため、法的な判断が必要な場合は専門家への相談をおすすめしています。
