真田家の家系図|幸隆・昌幸から信之・幸村まで図解で解説

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家系図続柄
真田家の家系図|幸隆・昌幸から信之・幸村まで図解で解説

真田家の系図を実際にたどっていくと、多くの人が同じところで手を止めます。「信繁」という当時の実名と「幸村」という後世に広まった呼び名が同一人物を指すと知らず、別人のように扱ってしまうケースです。さらに関ヶ原では父・昌幸と弟・信繁が西軍、兄・信之が東軍につき、同じ一つの家の系図のなかで敵味方が分かれるため、線をたどっているだけでは誰がどちら側だったのか見失いがちになります。

真田家の家系図|幸隆から信之・幸村まで一目でわかる系図

まずは、真田幸隆を起点に、昌幸・信之・信繁へと続く本流を簡易系図で見てみましょう。縦の実線は実の親子、横の二重線は夫婦のつながりを表します。

真田家 直系の系図
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真田家の直系をたどった系図。幸隆の子・昌幸から、兄・信之と弟・信繁(幸村)に分かれます。信之の妻・小松姫は徳川家康の養女で、この縁が関ヶ原で真田家を救う一因となりました。二重枠は故人、二重線は婚姻を表します。

家系図のかたちで大きな流れを追うと、次のように整理できます。

  • 幸隆から昌幸へ — 真田家は、信濃の国衆として武田信玄に仕えた真田幸隆に始まります。幸隆の子のうち、兄たちが長篠の戦いで討死したため、三男の昌幸が家督を継ぎました。
  • 昌幸の二人の息子 — 昌幸には、兄・信之(信幸)と弟・信繁(幸村)という二人の息子がいました。昌幸はたびたび徳川の大軍を退け、「表裏比興の者」とも評された知将です。
  • 関ヶ原で分かれた父子 — 関ヶ原の戦いで、昌幸・信繁は西軍、信之は東軍につきました。一族が東西に分かれたことが、結果として真田家を後世に残すことになります。

以下では、この系図を「幸隆と昌幸」「信之と幸村」「真田家が生き残った理由」の順に、もう少しくわしく見ていきます。

真田幸隆と真田昌幸|信濃の国衆から戦国の知将へ

真田家の家系図|幸隆・昌幸から信之・幸村まで図解

真田家の家系図は、信濃の小さな領主から始まります。幸隆・昌幸の二代で、真田家は戦国の表舞台へと駆け上がりました。

続柄 人物(読み) 主な事績
真田幸隆(ゆきたか) 武田信玄に仕え、信濃で真田家の基礎を築いた
長男 真田信綱(のぶつな) 長篠の戦いで弟・昌輝とともに討死した
三男 真田昌幸(まさゆき) 兄たちの死後に家督を継ぐ。徳川の大軍を二度退けた

家督を継いだ昌幸は、上田城を築き、二度にわたって徳川の大軍を撃退します。この知将としての名声が、二人の息子・信之と信繁にも受け継がれていきました。

真田信之と真田幸村|関ヶ原で東西に分かれた兄弟

真田家の家系図でもっとも知られるのが、昌幸の二人の息子、兄・真田信之(信幸)と弟・真田信繁(幸村)でしょう。関ヶ原の戦いで、この兄弟は敵味方に分かれました。

  • 兄・真田信之 — 妻は徳川四天王・本多忠勝の娘で、徳川家康の養女となった小松姫。この縁もあって、信之は東軍(徳川方)につきました。
  • 弟・真田信繁(幸村) — 父・昌幸とともに西軍につき、関ヶ原ののちは紀州・九度山に蟄居します。のちに大坂の陣で豊臣方に加わり、「真田丸」での奮戦や家康本陣への突撃で、「日本一の兵」とうたわれました。
  • 大坂の陣での最期 — 信繁は大坂夏の陣で討死し、子の幸昌(大助)も大坂城で命を落としました。豊臣方についた幸村の家は、ここで途絶えます。

こうして見ると、真田家の家系図は「幸村の華々しい最期」だけで終わるものではありません。兄・信之の流れが、次の時代へと真田家を伝えていきました。

真田家が生き残った理由|信之が松代藩へ続いた家系図

関ヶ原のあと、東軍についた兄・信之は所領を安堵され、のちに信濃・松代(長野市)へ移ります。信之の子孫は松代藩主として続き、真田家は江戸時代を通じて大名であり続けました。

続柄 人物(読み) のちの流れ
真田信之(のぶゆき) 東軍につき、真田家を大名として残した
真田信吉(のぶよし) 信之の子。沼田の領地を受け継いだ
真田信政(のぶまさ) 信之の子。松代藩を継ぎ、家を伝えた

派手な活躍で知られるのは弟・幸村ですが、家を後世に残したのは兄・信之でした。長寿でも知られた信之は、九十歳を超えるまで生きて真田家の礎を固めたと伝えられます。家系図でたどると、「散った枝」と「続いた枝」がはっきり見えてきます。

真田家の家系図を自分で作る方法|標準的な関係線で再現

ここまで見てきたように、真田家の家系図は、親子・兄弟・婚姻といったつながりが、家の運命を大きく左右しました。こうした関係は、文字の一覧より、線で結んだ家系図にすると一気に分かりやすくなります。

家系図をきれいに描くコツは、関係ごとに線を引き分けることです。本サイトでは、系統図で広く使われる標準的な記法に沿って、次のように線を使い分けることをおすすめしています。

関係 線の種類 書き方のポイント
親子(実子) 実線 夫婦を結ぶ線の中点から、子へ下ろします
配偶者(婚姻) 二重線 夫婦を横に並べ、二重の横線で結びます
離婚(元配偶者) 二重斜線 配偶者の二重線に斜線を重ね、離婚を示します
養子 破線 実の親子(実線)と区別するため、破線で結びます

真田家のように兄弟がそれぞれの道を歩んだ一族は、兄弟を横に並べ、婚姻を二重線で結ぶと、誰がどの陣営についたのかまで一目で追えるようになります。関係線の詳しい引き方は、家系図の書き方完全ガイドでも図解しています。

手書きでも描けますが、人物が増えると線の引き直しが大変です。オンラインの家系図ツールやテンプレートを使えば、配置や線をあとから自由に直せて、印刷や共有もかんたんです。本サイトの家系図エディタは、ここで紹介した関係線(実線・二重線・二重斜線・破線)をそのまま選んで引けるように作られています。和紙・免許状風のテンプレートも用意していますので、歴史好きの自由研究から、ご自身の家系図づくりまで幅広く使えます。登録は不要です。

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兄弟の枝と婚姻を線で整理
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真田家の家系図を読む前に確認すること

  • 「信繁」と「幸村」が同一人物であることを前提に、系図には統一した表記(信繁〈幸村〉など)を使う
  • 関ヶ原で誰が東軍・西軍についたかは、家督を継いだかどうかとは別の情報として書き添える
  • 家督を継いで続いた系統(信之)と、大坂の陣で途絶えた系統(信繁)を、線や色分けで区別しておく
  • 長篠の戦いで兄二人が没し、三男・昌幸に家督が渡ったように、生まれ順どおりに継承されなかった箇所には注記を添える

ほかの武将とのつながりを見たい方は、あわせて戦国武将の家系図まとめもご覧ください。

よくある質問

真田幸村と真田信繁は同じ人ですか?
はい、同じ人物です。「信繁」が当時用いられた実名で、「幸村」は後世の軍記物などで広まった名として知られます。本記事では、歴史上の表記にならって信繁(幸村)と併記しています。
真田信之と真田幸村はどういう関係ですか?
二人は兄弟で、真田昌幸の息子です。兄が信之(信幸)、弟が信繁(幸村)にあたります。関ヶ原の戦いでは、兄・信之が東軍(徳川方)、弟・信繁が父・昌幸とともに西軍につき、一族が敵味方に分かれました。
なぜ真田家は関ヶ原のあとも生き残れたのですか?
関ヶ原で父子・兄弟が東西に分かれたことが一因とされます。西軍についた昌幸・信繁は敗れましたが、東軍についた兄・信之は所領を安堵され、のちに松代藩主として家を残しました。あえて一族を二手に分けることで、どちらが勝っても家名が絶えないようにしたとも語られます。
真田幸村の子孫は続いていますか?
西軍について大坂の陣で戦った幸村(信繁)の家は、幸村とその子・幸昌(大助)が大坂で討死し、嫡流は途絶えました。一方、兄・信之の家は松代藩主として江戸時代を通じて続きました。真田家そのものは、信之の流れによって伝えられたことになります。
真田昌幸はどんな人物でしたか?
真田幸隆の三男で、兄たちの死後に家督を継ぎました。上田城を拠点に、二度にわたって徳川の大軍を退けた知略で知られ、戦国きっての知将の一人に数えられます。関ヶ原では西軍につき、敗れたのちは紀州・九度山に蟄居しました。

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家系図マニア

祖父の連絡先を探して戸籍をたどった経験から、家系図を作りはじめました。家族のつながりも、歴史上の一族や物語の関係図も、自分の手でたどれる入口にしたいと考えて個人で運営しています。行政書士・司法書士などの資格は持たないため、法的な判断が必要な場合は専門家への相談をおすすめしています。